山田屋の糀と酵母

山田屋の歴史

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初代山田 弥惣治

初代

山田屋は、明治24年(1891年)創業の蔵元です。初代山田弥惣治が醤油製造業が軌道に乗った記念すべき年でした。 元々、葛塚縞の織物事業に取り組んだもののうまくいかず、町外れだった葛塚(旧豊栄)に蔵を構えてチャレンジしたのが今に至る醤油製造業でした。
当時の銭箱(木製金庫や札箱)や出納簿が残されており、徳利や一升瓶、木樽に詰めた醤油を大八車に積んで行商に励み、事業の基盤を固めていったのです。
弥惣治は温厚な性格だったと伝わっており、54歳で二代目忠太郎に家督を譲り引退します。

二代目山田 忠太郎

2代目

初代弥惣治の跡を継いだ二代目が長男の忠太郎です。北越興商会附属新潟商業学校(現 県立新潟商業高等学校)で学び、 学友たちの多くは新潟の経済界を担って活躍しました。彼らとの交流は生涯続いたと伝わっています。 大正5年(1916年)、弥惣治の隠居で家督を相続、醤油醸造蔵の発展に力を尽くしました。
忠太郎は家業と共に町議4期や葛塚区長などの公職も務めました。 山田屋の店舗には、忠太郎が渋沢栄一から頂いた書「施徳惟仁(徳を施すことこれ仁なり)」が今も飾られています。忠太郎は終生この言葉を大切に、「地元あっての山田屋」だとして水道計画や葛塚駅(現 豊栄駅)建設に取り組みました。調停委員としてあるいは地域役職としていただいた感謝状や表彰状は、忠太郎にとってとてもうれしいご褒美だったに違いありません。

三代目 山田 久一

3代目

新潟県上越市新井で小林籐一郎の次男として生を享け、新潟県高田師範学校を卒業後、 勤務先で同僚だった山田スミと結婚しました。 家業を継ぐため、職人たちと苦楽を共にする一方、筑波にあった食糧研究所で醸造学を学び、 昔ながらの味噌づくりに科学的な裏付けを求めることから始めました。

また、県内で販売店獲得の競争をすることを嫌い、関東圏への販路拡大を目指し、 慎重で実直に新規開拓、得意先を廻り、市場調査を行いました。 関東問屋会が存在した当時にあって、味噌業界の関東大手問屋との取引を網羅できたのは、 足で稼いだ営業力と大手問屋社長に「山田屋の味噌は美味しい」と太鼓判を押して頂けたことに他なりません。

また、いち早く、通信販売を開始。「送料を払ってでも買ってくれるお客様を大切にしなければ…。」と 個人向け直送販売のお客様をとても大切にしていました。その一つが、ガリ板で作成した毎月の『味噌通信』です。 お客様とのコミュニケーションを何よりも大事にしたいと願うツールの一つで、 その一部は、 こちらからご覧いただけます。 この思いは今、山田屋の『豆まめ通信』となって引き継がれています。

四代目山田 一弥

4代目

三代目久一の長男として生を享けます。
東北帝国大学(現 東北大学)の工学部に進学、卒業後も工学の研究を続けたい意志がありましたが、 「長男は、家を継ぐべし」との父の言葉に、農学部に席を移して研究を始めました。 技術者として、新製品の開発に努め、品質管理を徹底する基礎を築きました。

朝から夜まで研究室にいることと、研究誌を読む事が何よりの喜びで、 「良いものを作る」「工面せよ」と、創造する事を大切としていました。

晩年は、教育委員長や味噌組合の技術会会長など様々な役職に付き、地域や味噌業会の為にも尽力しました。 職人達の技術力を向上させる為に、たびたび勉強会を開き、 病気で亡くなる最後まで研究を行い、よい製品を作れないかと模索する人柄でした。

五代目山田 克司

5代目

新潟県胎内市中条で大倉幸夫の次男として生を享け、山田正子と結婚しました。
食事の洋食化や、小売店から大型スーパーへと売場の変化、核家族化の煽りなど様々な要因が重なる中、 平成の初めからテレビ通販やギフトカタログを先駆け、売上を伸ばす傍ら、 職人の労働環境を改善すべく、工場の設備化に力を入れてきました。

克司が入社当時40kgポリを担いで運んでいた難儀な搬送工程をなくしたり、 鉄製だった大豆の蒸煮釜をステンレス製に入れ替えることで製品の品質改善をしたり、 晩年も職人の重労働を軽減すべく尽力していました。 平成19年(2007年)には、自社Webサイトを立ち上げ、 その後も楽天やAmazonといった通販サイトに出品し新たな販売方法を目指しました。

令和2年(2020年)68歳で六代目弥一郎に家督を譲り引退します。

六代目山田 弥一郎

6代目

五代目克司の長男として生を享けます

東京理科大学を卒業後、一般企業に就職し販売促進での新商品開発、営業職に携わりました。 平成27年(2015年)に五代目克司から、「今の従業員を最後まで雇用し、山田屋を廃業する」と、連絡がありました。 自身が育った味に蔵の職人たち、そして感じていた香りや雰囲気。 また、長くご愛用頂いておりますお客様はもちろん、未来の子供達にも山田屋を残したい。 この想いで、新潟の山田屋に戻ってきました。

変化が激しい平成末から令和の時代を乗り越えるためにも、 受け継がれる技や想いを大切にし、発酵に挑戦し、学ぶことで進歩していきます。 そして、発酵を通じてお客様が笑顔になれる味噌蔵を目指します。